「みんな」のバカ! 無責任になる構造
仲正 昌樹

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夏目漱石の西欧個人主義解釈への指摘が趣き深い。

 『私の個人主義』という有名な講演において、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。
 (・・・)近代化以前の日本だと、「世間」一般を代表とする親族や五人組とか、庄屋、代官、奉公などが、「みんな」の周囲にいたわけだが、漱石は、そうした「世間」の代表=表象装置が解体しつつある「近代市民社会」での「個の責任」の可能性を語っているわけである。
 つまり漱石は、それ自体としてはとらえ所のない「世間」を何とか具体的に「表象」していた従来のシステムが消滅しつつあるのを目の当たりにしながら、その崩壊しつつある”世間”に対する「応答」を倫理の基礎にしようとしているのである。西欧個人主義と、「世間に対して申し訳ない」という曖昧な感覚が、彼の内で奇妙に交差している。

 こう改めて指摘されてみると、いわゆる「日本人」的な「自由」と「責任」の感覚は、夏目漱石のそれから一歩も進んでないように思えてくるほどだ。そのような文脈の中で、消滅しつつある「天皇によって表象される世間」を媒介とした道徳的価値を「あえて」問うた三島由紀夫の議論などふまえることもなく、「自由」を「世間」を媒介とした「責任」を伴うものだと無自覚に享受している節がある。三島由紀夫が少し好きになった。

漱石文明論集
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若きサムライのために
三島 由紀夫

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