気持ち悪い・・・

上記と関連して、僕が最近何とも言いがたい気持ちの悪さを感じたことがある。
それは自分の出身高校のHPを見ていたときに起こった。
そこの教育目標には次のような謳い文句が掲げられていた。

1.未来を洞察し、開拓しうる高い知性と教養を養う。
2.誠実で敬虔な態度な心情を培い、真理を求める態度を養う
3.豊かな情操を培い、真理を求める態度を養う
4.優れた体力と気力あふれる精神を養う
5.己に偏せず、広い視野から社会に貢献できる人間性を育てる

 気持ち悪さを感じたのは、察しのいい人ならわかると思うが、5の「己に偏せず、広い視野から社会に貢献できる人間性を育てる」という項目である。
実際にそのような教育が行われているかどうかは疑問が残るところだが、ここで問題としたいのはそんなことではない。
 僕の感じた気持ち悪さをより詳しく書こう。
別に「社会貢献」という価値観それ自体を否定する気は僕にはない。それを個人として持ち合わせることは、なんら否定することができないだろう。それと同時に、「社会貢献」という価値観を個人が持たない自由も保障されてしかるべきである。
問題は「社会貢献」というものが教育的価値観に据えられていることだ。
 自由主義とは、原則的には、個人がどのような価値観を有する自由も保障されているものであり、その「自由」が制限されるのは他者の「自由」を侵害するものについてのみだからだ。「貢献しないこと」は他者の「自由」を侵害することにはならない。
また、近代社会において、「自由」に付随する法的ルール遵守の「責任」を説くこととは、他者による自己の自由の侵害を糾弾することと同義であり、それはすなわち自己の権利を守ることとみなされる。近代的な文脈において、「責任」とは曖昧な「世間」に応答して発せられるべきものではなく、明確化された自己権利を守るものとしてあるべきものだ。
 釈然としないのは、上のような前提が説かれるより先に、「社会貢献」というものが教育的価値観として掲げられていることだ。自由主義の前提を受け入れるならば、我々が「社会貢献」という価値観を受け入れなければならない正当な理由はない。しかしその前提を教育されなければ、「社会貢献」という価値観を相対化できないという可能性がある。そこに、「社会貢献」という価値観を無自覚に受け入れなければならない方向に仕向けられているような気持ち悪さを感じるのである。
これも「自由」にともなう「責任」を曖昧な「世間」へと委ねている日本の文脈と関係してるのではないだろうか?


 学校教育において、「社会貢献」という価値観がどのような正統性を持つかは大変興味深い。
まぁよりマクロな道徳の有用性の観点からも考えなくてはならないのだろうけど。
今日はもう∀ガンダムが呼んでるので、また今度考えよう。
というわけで誰かよい参考文献を教えてくれないでしょうか?