読了

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ
中島 義道
カニシヤ出版
1997-05


by G-Tools

ちょい長いが、第六章「不幸を自覚すること」のすすめ から引用

 50歳になって痛感しているのですが、人生はゴマカシの連続である。しかし、自殺することも完全に世を捨てることもやはりゴマカシだとすると、ゴマカシに徹して生きるほかはない。なるべく自分の「かたち」に合ったゴマカシをたんねんにつくりあげるほかはない。そこで<半隠遁>という「かたち」を私は自分用に―そしてたぶん0.1%くらいの同胞のために―考案したのです。
 まとめてみますと、<半隠遁>に適しているのは次のような人です。人生の「虚しさ」を子供の頃から実感しており、何をしてもヒューと風が首筋をなでるように虚しさを感ずる。その虚しさの極限に「死」がある。しかし、いまだに信仰をもつこともできず、芸術活動や政治運動あるいは「小さな善意の表現」によって生きがいを見つけることもできない。ひとことで言えば、何をしても納得がいかず、何をしても不満足で何をしてもつまらない。死にたくもないし、このままダラダラ生きていくことも耐えがたい。
 こんな人は、ぜひ残りの人生を<半分>だけ降りて、自分の人生の「かたち」をつくることにいそしんでもらいたいのです。つまり<半分>は社会的に生きてゴマカシ続ける。しかし、残りの<半分>はけっして妥協せずに自分の内部の声を聞き分ける(としても全体的にゴマカシであることには変わりませんがそれでいいのです)。自分はいったい何をしたいのか、自分にとって何が最も重要な問題であるのか、追求しつづける。ニーチェの言葉をかりますと「いかにして自分自身になるか」と問い続ける。
 私の場合は、すべての問いは「哲学(をする)とはいかなることか」という問いに収斂しますが、これから先は読者各人が自分で問いを出して自分で答えるよりほかはない。「正しい」問いなどどこにもなく、まして「正しい」答えなどどこにもない。しかも、いつか「正しい」答えが見出せるという保証すらありません。
 この営みは反社会的というより、非社会的行為ですから、格別「よいこと」でなくてもいいのです。例えば自分を苦しめたあの人に残りの人生をかけていかに復讐するかという問いでもよい。残りの人生をいかにごまかして生きるかという問いですらよい。反語的ですが、いかにごまかして生きるかをごまかさずに問うとき、比較的ゴマカシのない世界が開けてくるのです。
 そして、こうして<半分>だけどうにかしてして人生を降りることに成功しますと、たぶんまた降りていない人生の<半分>の相貌も変わってくる。「繊細な精神」「批判精神」「懐疑精神」をもって「自己中心主義」に「世間と妥協せずに」生き抜くと、会社でも学校でも、つまり残しておいた<半分>の人生観も変わってくる。私の場合でしたら、大学教授としての役割、学者としての役割、日本人としての役割、大人としての役割、父親としての役割、夫としての役割、息子としての役割……が限りなく軽くなる。つまり、大学教授らしくない、学者らしくない、日本人らしくない、大人の男らしくない、父親らしくない、夫らしくない、息子らしくないヘンな人間ができあがります。
 こうした「成果」があらわれてきますと、世間に期待することも、世間から期待されることも限りなく薄くなり、世間のしがらみから、そのギッチリした価値観から自由になれる。まっ、ひとことで言いますと世間から相手にされなくなるということです。
 ですから、―当然の帰結ですが―「哲学的生き方」をまかりまちがって選ぶと、あなたはかならず(世間的には)「不幸」になります。そして、それでいいのです。まさにこうした不幸を選び取ること。不幸を覚悟し、不幸に徹して生きつづけること、これこそが<半隠遁>の醍醐味なのですから。

自己言及をストップしてしまうと、自己欺瞞を抱き続ける自分に気づかされ、それに耐え切れなくなる。かといって、いかなる場合にも自己言及し続けることにも耐え切れそうにないし、なによりそうすることで世間的にはアウトサイダーに位置づけされ続けることになる。問題はその<半分>の空間的、時間的範囲選定であり、とりあえずはこの一年間である程度その方向性を決しなくては。