選択的プラグマティズムと自我同一性 −今 敏 『PERFECT BLUE』からー

我々がものごとを捉える際、また、実際にどのような行動を起こすのか考える際、合理的な理性というものは有効に作用するように思える。
この合理的理性はデカルトの機械論、ルソーなどの啓蒙主義を基礎として発展した近代社会を通じ、我々に広く浸透したものである。
しかしこの合理的理性というものにも限界が見られる。この合理的理性の限界はマクロレベルでは、市場経済の科学的な計画化を試みたマルクス主義の失敗にも見られる。

現在、我々が生きてる社会は、様々な最新技術の出現、価値観の多様化、共同体的伝統秩序の弱まりにより、一貫した行動体系のバックボーンを得られない社会である。
このような社会では、合理的理性に従って行動することが必ずしも有効な手段とはなりえない。
というのも様々な技術革新や価値観の多様化の加速度に、合理的な理性を追いつかせようとすることには限界が見え始め、また、合理的な理性そのものがさらなる伝統的秩序の破壊を促進していると考えることができるからである。

それなら我々は、残された伝統秩序に従って、もしくは、自己の観念的な直感に従って行動すべきなのだろうか。
そこにまた問題が見出される。伝統は無自覚的に従われたときに伝統としての機能をもつ。弱体化した伝統秩序は、その伝統の存在根拠がすべての人に自明ではないため、その伝統に従う者とそうでない者のあいだに確執を生む。これは宗教的な伝統に従う原理主義の問題だけでなく、家族、結婚、ジェンダー、環境問題、など様々な分野の伝統に見出される問題である。
また観念的な直感に従って動けば、すべての人がそのような行動をとってしまうと、当然社会は無秩序な状態に陥る。(また、そもそも私は自分の直感能力というものに対して懐疑的である)。

それなら、我々は一体どのように行動すべきか。
仲正昌樹『「不自由」論』の中で以下のように語る。

これからは従来のマルクス主義や、市民社会のように、無理に「思考」と「実践」を一致させようとしないほうがいいと思う。「思考」の面では、急いで解答を出そうとせず、自己の立脚点を脱構築し続け、「実践」面では、その場その場の状況に応じてプラグマティックに振る舞うようにしたらいいのではないだろうか。

しかしこの方法論が有効に作用しない人もいるだろう。
この方法論によって生まれる問題は「思考」面で脱構築し続ける自己と、「実践」面でプラグマティックに振る舞う自己という自己イメージの乖離に苦しみを伴う人間が少なからずいる、ということだ。

このような自己イメージの乖離に苦しむモデルは今敏の『PERFECT BLUE』の中に象徴的に見られる。


主人公である霧越未麻はB級アイドルグループ“チャム”のメンバーであったが、女優への転身を志し、脱アイドル宣言をする。しかしそんな彼女に回ってくる仕事としてはTVドラマの端役。事務所では彼女の売り方を巡り、チーフマネージャー・田所とアイドル路線に執着する未麻の付き人・ルミの板挟みに会う。
そんな中で未麻は、ドラマでのレイプシーン、さらにはヘア・ヌード写真集の発売と世間の注目を集めるものの、自分の思い描く本来の姿と、実際の仕事との間の大きな自己イメージの乖離に苦しむことになる。それは
「ただ記憶の連続性、それだけを頼りに、私たちは一貫した自己同一性という幻想を作り上げている」
というセリフによって端的に示される。

この映画のラストシーンで、未麻は、「アイドルとして振る舞うことが自分の本来の姿だ」とする自己イメージが、付き人であるルミによるイメージ操作であることがわかり、自分が「本物だ」と確認するという形で映画は幕を閉じるわけだが、我々が現実に生きる社会のなかではそのような「救済策が実際に起こりうるとは考えにくい。

かといって、それに対抗するための有効な方法論を見出せないでいることも事実である。
さてどうしたもんか。鬱だ。