春休み

村上春樹風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を一気に読む。
これに『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』を加えた5作品(以降の作品はそんなに読んではいない)を春休みに読むことを、ここ数年の習慣としている。
良くも悪くも、そこから何か違うのものを得るとしても、そこに何かを批判を加えるとしても、僕にとっては重要な外部記憶装置として機能している。判定基準の一つとして作用している。

「あなたはどちらを応援してるの?」と208が訊ねた。
「どちら?」
「つまり、南と北よ。」と209。
「さあね、どうかな? わかんないね。」
「どうして?」と208。
「僕はベトナムに住んでるわけじゃないからさ。」
二人とも僕の説明に納得しなかった。僕だって納得できなかった。
「考え方が違うから闘うんでしょ?」と208が追求した。
「そうとも言える。」
「二つの対立する考え方があるってわけね?」と208。
「そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない。」
「殆ど誰とも友だちになんかなれないってこと?」と209。
「多分ね。」と僕。「殆ど誰とも友だちになんかなれない。」
 それが僕の1970年代におけるライフスタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。


村上春樹1973年のピンボール講談社文庫p38-39

この「1970」という数字を「1990」に置き換えると、そのまま僕の10代のライフスタイルが導かれる。
ドストエフスキー村上春樹、先に読んだのはどっちだっけ?
まぁどちらにしても現時点からは、もともとキミはそんな人間じゃなく村上春樹ドストエフスキー的価値観を内在化してるに過ぎない!といった指摘も可能だ。
が、
その指摘はさして現在の僕には意味を持たないように思える。少なくともその指摘だけで終ってしまっては何の意味も無い。
10代の僕がもともとそのような性質を持っていたにせよ、価値観を内在化させた後にそのような性質を身に着けようとしたにせよ、今となってはニワトリと卵の問題だ。
時間的連続性から1990年代の僕が2000年代の僕に絶えず影響を与え続けていること。
そこからは逃れようもない。
しかしながら1990年代から現在に至るまでの間に、僕もいろいろなことを覚えた。
わざと度の合わないメガネをかけることを覚えたり、対象を顕微鏡で見ることを覚えたり、時には自らの視覚神経を疑うことを覚えたり、、、。
そしてまた、生きている限り、目を開いている限り、何かは必ず目に入ってくる。
同時に、必ず目に入っていないものも存在する。


さて、これからどこに行こうか?何を見ようか?