試験

四限 一般教養 人間関係の科学B
授業などむろん一回も受けてないし、試験内容も今日まで知りませんでした。
んで試験問題。


「人間関係についてあなたの考えを述べよ。」


がびーん。なんじゃそりゃ。漠然としすぎだろ!
どの程度のレベルの答えを求められてるのかわからず、しばし悩む。
頭の中を検索。
とりあえずウィトゲンシュタイン独我論における自己および他者、で書くことに(つーか永井均とか橋爪大三郎ウィトゲンシュタイン解釈かな)。
答案用紙一枚まるまる使ったのだが、時間が限られてることもあり、なかなかうまいオチが付けられない。時間はどんどんせまる。
んで結局オチとして書いたのは、


<私>を<私>たらしめているもの、「他者」との差異による「私」ということだけに留まらず、「私という自我」が「TDC(答案中は本名)という名で指し示されるところの私の身体」に宿っているという同一性の問題だけにも留まらず、<私>たるものが存在してるということ。
それを独我論で語ろうとすると、すなわち、「私が認識している世界は私の自我内でのみ存在しえるものであり、私がこの世界を認識しえる限りにおいて、私は存在していると言える」というように一旦概念化してしまうと、この概念は誰にでもあてはまる普遍化されたものになってしまい、結局他者とは違うという<私>、入れ替え可能でない<私>を認めたことにならない。
そしてこの独我論と普遍化された独我論の相互関係はどこまでいっても永遠に断ち切れることがなく続いていく。
そこから逆説的に次のことが言えないだろうか。
すなわち、<私>を<私>たらしめているものは、概念化されうるもので示すのは不可能であると。
<私>という存在は、概念化されうるものから超越的な存在なのではないか。
上の議論も一つの概念として成立してるではないかという自己言及のパラドックスは避けられえないものではあるが、<私>の存在はそうした自己言及のパラドックスをも超えたところに存在すると考えられる。
ところで我々は概念化されたものしか理解することができない。
我々が他者との間で相互理解できるのは概念化されうるもののみであり、<私>は他者には理解されないし理解されることがあってはならない。同時に<あなた>を私が理解できることはないし、理解できることがあってはならない。


うーん、自分でもちゃんとわかってるのかわかってないのか???な結論。
単位くるかね?