監督とチームの喩え話

TDC2005-01-11

初詣に行ったとき友人達が話していたのをなんとなく聞いていたので、自分も考えてみた。
比喩は、監督=自己内における行動規範やら価値観 チーム=社会における対外的行為 で概ね合っていると思う。


たぶん僕は監督を常時何人もストックしてる。より正確にいうと、ある監督に対して、その監督がちゃんと働くかどうかを管理する別の監督をさらに置き、そしてさらにその監督がちゃんと働くかどうか(ry という作業を延々とやってる感じ。
でも、ある仕事をチームがしなきゃならない期限というものがあったり、どうしても現時点での監督がいい監督かどうかわからない時(仕事によって選ぶ監督は違うが)、とりあえずその監督でチームを動かさなきゃならない。現時点での監督はそりゃあ交代はしたくないから、一生懸命がんばるがんばる。対外的には。


でも自己内では、その監督の欠点を探してもらうことを望んでおり、その監督自身が成長するか、もしくは新しく生まれる監督に交代させようと思っている。


そんなことをやってるため、ある人の価値観に対して、あえて別側面から見れる監督をストックの中から選び出して意見を戦わせてみる、なんて天邪鬼な人間になるのだな。


まぁ例えに沿って書きましたが、簡潔に言うと、自己内では自分の行動規範や価値規範に疑いを持ちながら考え、対外的にはしょうがないから現時点でストックしてる行動規範、価値規範に従って行動・発言するということですね。
そうするのも、いつかどんなに疑っても疑いようのない行動規範・価値規範を見つけられるのでは、とか淡い希望を抱いているからですね。死ぬまでに見つけられるんでしょうか。見つかるものなのでしょうか。


そこで自分にとっての(明治天皇にも言われたw)誠実な態度とはまさに自己を疑い続ける態度であり、一時点での対外的行動・発言を起こすことは、ある意味不誠実な態度であるのだな。まぁこの年になって、ある程度の不誠実さとは折り合いをつけられるようになりましたが、昔は自分の考えを行動なり発言なりで示すときには、原罪を背負わされるような罪悪感を抱いたものです。


と、「このエントリー自体も、現時点における監督による対外的な行為だろ」と別の監督が茶々を入れるわけですが、そこはなんとか折り合いをつけましょう。