<生命を維持すること>と<生きること>の概念分けを念頭に置かないと、話の焦点を明確化するのに困難をきたす場合が多い。
各人の経済的活動は大きく前者に関わっているのだが、後者にも少なからず関わりを持つことも我々は理解している。
これにはまず、<生命維持>が為されなければ、その後の<生>を為すことが不可能であること。また<生命維持>を通してなお余りうる財産を<生>へ利用できるという点でも、経済活動と<生>の関係を指摘できる。
しかしながら、経済活動のみが<生>のすべてを支えているわけではなく、少なくとも私が自己にとってよき<生>を送るという観点では、ほとんどそれはあてはまらない。


このような考えはことさら特別な考えでないと思えるが、対面的なコミュニケーション、特に両親とのコミュニケーションにおいて「どうやって生きていくのか」という話になるとき、このことを意識していないと、まったくもって有意義な話に発展しない場合が多い。
つまり<生命維持>と<生>を「生きる」という同一の単語を用いたまま話が進み、相手が<生命の維持>のみに重点を置いた話を展開しているとき、それをふまえた上で<生>への対話へと発展させることが困難なため、どうにも収まりの悪い違和感を抱えたまま話が終了してしまうことが多々あるのだ。


しかしながら、私にとってのよき<生>というものが未だ不透明であることが、<生>への対話へと発展させることを困難にさせている原因でもあるだが、不透明だからこそより<生>に関する対話の重要性を感じざるを得ないのだな。