2004-11-25の続き

http://d.hatena.ne.jp/TDC/20041125

「自分が社会で生きていく上で、人に迷惑をかけないことを自らの基本的姿勢とする」という意味で「基本」という言葉を用いるならまだ問題はないと思えるが、

と書いが、問題ないと思えるのは、それが「姿勢」という個人の意思の範疇に留まる場合だ。
これが他人に対する押し付けとなってくると話が違ってくる。
それは、そのような基本姿勢を持ってない人に対して「迷惑になる」という、語義矛盾さえ生じさせる。


例えば僕は、人に迷惑をかけないことを自分の基本姿勢なんかにしようと思ってはいないし、そんなことは口が裂けても言えない。
より正確に言うと、「人に迷惑をかけてはいけない」という教育によって植えつけられた排他的な道徳感情から必死で逃れようともがいている。


というのも、僕は他人になにかを期待するということがとても苦手な人間だ。
期待を抱くからこそ自分が傷つくし、人に迷惑をかける。
どうせ期待が裏切られるなら、初めからなにも期待しないほうがいいと思うことさえある。
しかし、なにも期待しないこととは他者との断絶を意味する。


人が存在しているのに誰も存在してない世界。


自分が存在していることすらもわからなくなる世界。


絶望の世界


そんな世界から必死で逃れようとしている。
いつからか他人に期待を持とうと思い始めた。
他人に期待を抱いて傷ついたら、期待を抱いた自分が悪い。
それでも絶望の世界よりいくらかましだ。


他人に期待を抱いて迷惑をかけたら、できる限り対処しよう(対処それ自体が迷惑になるときもあるが)。
しかし迷惑をかけないことを自分の基本姿勢とすることはできない。
それは自分にとって絶望を意味する。