面接じゃあ言わないこと

何人かは知ってると思いますが、内定が出ました。
財務省のコンピュータシステムの設計・開発をする仕事です。


ソフトウェアシステムを例に出して考えてみると、そのシステムはどのようなシステムであってもプログラミング言語に従って「正しく」「論理的に」作動している。
そこに「正常/誤作動」という価値判断を下せるのはソフトウェアシステムに対し外部観察が可能な人間の思考システムにおいてであり、その点において人間言語の論理体系はプログラミング言語の論理体系のメタ論理として機能していると言う事が出来る。
かくして「プログラミング言語メタ言語としての人間言語」というものを一つのモデルとして人間言語にとってのメタ言語の可能性の思考へと至ることができるが、その場合にやはり留意しなくてはならないものは自己言及のパラドックスである。
我々がいくら人間言語のメタ言語を思考/志向しようとも、それはやはり我々人間が生み出した言語であることに変わりはない。真に我々の論理を外部から決定するメタ論理の構築は不可能であると思える。メタ論理への志向は我々人間の論理の限界へと至るための志向とひとまずは考えるようにしよう。
論理的価値の議論ではないが、コンピューターシステムにおけるエラーやウィルスを定義し価値判断を下すのは人間であるのだが、人間に(少なくとも社会に)おけるエラーやウィルスを定義し価値判断を下すのは、教育システム、倫理システム、経済システム、法システム、各種権力システムなどが考えられるが、我々人間は歴史の積み重ねにより作り出したこれらのシステムを適宜自己自身によって修正し価値判断の基準としている。


僕が就職を決めたのは、自己生存のための金を稼ぎながら、「国家権力システム・経済システム―人間―コンピューターシステム」というパースペクティブのもとに人間の論理の限界と倫理的価値自由の問題を考たいと思ったからです。
しかしながら短時間で面接官が理解できるように説明することは非常に困難であると考えたため、面接ではほとんどイデオロギーの適合(これはむしろ反対と言ってもいいくらいで、僕個人としては政府の機能というのは最小限に留まるべきだと考えている、というか権力によって僕個人の自由が管理・制限されることには賛同してはいない)自分の能力が企業の利益となること(これも常に欺瞞を感じる。「潜在能力」なるものは未来においてしか証明不可能でとてつもなくインチキくさい。が幸いながら面接官は僕に潜在能力なるものを感じ取ってくれたようだ)を述べるに留まりましたが、とりあえず結果は出せてよかったと思っています。
まぁ単純に政府規模の大きなシステムに関わるという技術的な知識欲求もあるんだけど。


自由とは何かを考えるためにとりあえず自由は放棄します。