TDC2005-02-10

一日中何も思考することもなかったし、何もできなかった。
これは正確な表現ではない。
例えば僕は朝起きたし、歯も磨いたし、外に出ることもしたし、数人の人と話したりもした。
そして、それらのことをこなす為になんらかの思考も介在していたであろう。
もし表現するならだ。
自己にとって有益となりうるであろう思考ができなかったし、そのような思考に基づいた行動をとることがまったくできなかった。
「行為」というものを主体によって引き起こされる意味を帯びた現象とするならば、その意味のなかに有益となりうる思考を介在させることが出来なかったし、その行為の帰結に関する予測にも、自己の有益性という観点を取り入れることが出来なかった。
(行為の中には、もちろん思考を言語で表現することも含まれるのだが、言語こそ思考だというような議論はここではするつもりはない)。
人によってはこのような状態を、「気分が晴れない」と言ったり「頭の中をハエが飛びまわってる」だとか言ったりするらしいが、今のところの僕の表現力の限界はこれだ。
次の表現も許されるならば、僕にとって今日一日とは特になかったものと同じだった、とも言えよう。


そんな気分を少しばかり収めてくれたのはポチとttp://www.rinto.net/weblog/?ID=123の文章だ。


言語の曖昧性は確かに認める。
言語は、使用者にとっては自己の概念から抽象されたたものであり、抽象されたものは当然概念と同一であるわけがなく、その時点ですでに曖昧なものだ。また受け手にとってみれば、その言語によって抽象されるものと自己の概念を照らし合わさなければならない、というより自己の概念と照らし合わすより他ない。こうして言語は一方が曖昧な部分を捨象したものに対し、他方が曖昧な部分を足していくという使われ方しかできない。


世の中には「大切なもの」という言葉がある。それがある人間にとっては、「全ての人にとっての最重要なものを包括する」固有名詞であるらしいのだ。残念ながら僕は、23年間生きてきて、何にもまして重要だと言えるようなものになどに出くわしたことがない。それは端的な事実だ。「大切なもの」という言葉は何かを包括しているらしいが、その何かがまったくわからない。持っているのは「世の中には「大切なもの」なるものを持っている人がいるらしい」という情報だけだ。
僕がその時々の行為の選択の指針としているのは、過去の経験から得た知恵をもとにしたコストパフォーマンスの予測、もしくは趣味としか言いようのないものだ。「大切なもの」らしきものは総じて「大切なもの」ではなかった。フィクションの世界では「大切なもの」が見つかりめでたしめでたし、という構図はよく見られるが、現実世界はそんなに甘くはない。
だから「大切なものはなに?」と聞かれても、「わからない」としか答えようがない。
そして「大切なもの」の意味を尋ねたら、「曖昧だけれども、だからこそ最重要なものを包括する的確な固有名詞」であるらしい。ますますわからない。少なくともそれでは問いに答えることができない。
どうも「大切なものを持っていない」自分に対して、「大切なものを持っている」立場の人間から、「すべての人間は大切なものといえるものを持っていて当たり前」ということを言われてるような気がしてならない。この考えが浮かんだ時点で、どうしようもない敗北感を与えられた気になった。「大切なもの」を持っていないことは罪悪なのだろうか?それを持ちたくても持ち得ないとしても。


ところで先も述べたように言語は曖昧なものである。
ある言語を言語を用いて説明したとしても、依然曖昧さは残されたままである。
言語をどこまで続けていっても、それを交わすお互いの中の曖昧さは拭い去られることはない。
それでもまだ僕が言語を使い続けるのは、続けることによって曖昧な部分がより明確な方向に近づいていくと考えているからだ。このblogはそのためにあるし、コメント欄もそのために設けている。
しかしながら他人の頭の中を覗くことのできない我々には、曖昧さが明確な方向に近づいたかどうかということも確かめようがない。
だから言語を使い続けることでより明確にしようという考えは、単なる僕の勝手な価値観にすぎない。
これを相手に強制することは、相手が自分にしていることと同じ構造だ。だからとりあえずはやめておこう。
これを価値観レベルではなく示すことができない限り。
そしてその場合には当然言語は使うことができないのだから難問だ。解決するきっかけすら未だ僕にはつかめない。


上記の問題を解決できないがゆえに人間同士での相互理解など不可能だ、とこの人はいつか僕に言ったが、そう言いながらそれでもなお言語能力を磨こうとするこの人が僕は好きだ。まぁウィトゲンシュタインくらいには。「大切なもの」なのかはわからないが、この人の存在が僕にとって幾ばくかの救いとなっていることは確かである。